言葉を選ぶ

先日紹介した出張の後日談。

クライアントとの打ち合わせを終え、メンバーと名駅でランチをして帰京することにした。

久しぶりの名古屋メシに期待をしつつ、名古屋に行けば必ず食べることにしている “えびふりゃー定食” を待ちながら、会話も弾む。

こうした時には、日常的な話が多いものの、思い余って、その日の打合せの反省などの言葉が交わされることもある。 場合によっては、メンバーからさまざまな愚痴が飛び出すこともある。 それはそれで大事なことなので、聞き役に回ることも多い。

細かいことは省略してざっくり言うと、
人が言葉を交わすという行為そのものが、その言葉を発した人の思惑以上に、結果に影響を及ぼしているということ。

言葉は、ただ情報を伝えるための道具ではない。 人を元気にもするし、落ち込ませもする。 場の温度を変え、関係性の距離を変え、 ときには意思決定の方向を動かすこともある。

自分の考えを余すことなく主張することが いつも最適とは限らない。

言葉を選ぶという行為には、 「自分が何を言いたいか」よりも先に、 相手がいまどんな状態にいるか この場がどんな流れを持っているか どんな未来につながる言葉が必要か といった“社会的な感受性”が働いている。

これは、責任という言葉で語ると少し重くなる。 けれど、もっと手前の、もっと本源的な話だと思う。

人は社会の中で生きている。 誰かと関わり、何かとつながり、 その中で自分の言葉がどんな作用を持つかを、 無意識のうちに感じ取っている。

その感受性があるからこそ、 自分の考えをすべて言うのではなく、 必要な部分だけをそっと差し出す場面が生まれる。

それは義務ではなく、 つながりを壊さないため、そして、よりよりつながりのための 静かな配慮 のようなものだ。

ビジネスの場面でも同じだ。 自分の主張をすべて伝えることよりも、 相手が動けるように言葉を整えることがよくある。 意思決定が進むように、温度や角度を調整することがある。

その行為は、正しさを競うものではない。 言葉が持つ作用を理解し、 社会の中での“接続の仕方”を選んでいるだけだ。

言葉を選ぶという行為は、 軽いようで、実は深い。
その一瞬の選択の中に、 人が社会の中で生きるときの つながり方の美学 のようなものが静かに宿っている。

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