昨夜、久しぶりに名古屋へ出張に向かった。
品川を出る頃は小雨だったのに、名古屋に着くと土砂降り。
数年ぶりの名駅の地下は工事中で、地下道が迷路のように入り組んでいた。
少し遠回りしながらホテルへ向かう道のりは、リモート中心の生活では味わわない“外の世界の密度”を思い出させてくれる。
実は、私はイマでも9割リモートワーク。

スマホの歩数計を見ると、1日200歩に満たない日もある。(オハズカシイ)
そんな生活の中で、今回の名古屋への出張は身体にとってちょっとした事件。
どんだけ運動不足か?という自己問答は置いておき、今日だけでも約8000歩。
10,000歩には満たなかったが、数字以上に、身体が外の空気を取り戻せた。(ハズ)
振り返れば、名古屋は、10年程前に3年間通い続けた土地。
当時、愛知・岐阜のクライアントは50社近くあったと思う。
街の空気や人の歩く速度、地下鉄の匂いまで、身体が覚えているのか?
久しぶりに降り立つと、懐かしさと新しさが同時に押し寄せてきた。
リモートワークが当たり前になった今、移動は単なる「仕事のための移動」ではなくなった。
むしろ、移動そのものが価値を持つ行為に変わったように感じる。
その価値は二重だ。
ひとつは、身体性の回復としての価値。
もしかすると、私のようなリモートワーク民の方が例外なのかも知れないが、リアルに感じる雨の匂い、街のざわめき、地下道の複雑さ。
こうした雑多な刺激が、凝り固まった認知をほぐしてくれる。
物理的な移動は、身体を通して思考を再起動する行為ではなかろうか。画面の前では得られない「環境からのフィードバック」が、思考の可動域をリセットしてくれるような気もする。
もうひとつは、現場に触れることで仕事の解像度が上がる価値があろう。
名古屋の街の呼吸を感じると、画面越しでは見えない“地域の温度”が立ち上がる。
人の動き、声のトーン、街の速度。昨夜の激しい雨音さえ、何かを訴えているのか?という、ある種のきっかけをくれる。
だからこそ、今日のクライアントとのミーティング中に、うっかり倒されたコーヒーカップの様子や慌てる人々の顔さえ、意味があるもののように思えてきたり。
こうした情報は、リモートではどうしても抜け落ちる。現場に行くことは、仕事の文脈を再び立体的にする行為だ。
移動は、働き方の「前提」ではなくなった。
移動は、働き方の「選択」になった。
そして、その選択には、思考と仕事の両方を豊かにする力がある。
名古屋の土砂降りの夜道を歩きながら、止まっていた感覚が少しずつ動き出すのを感じた。
移動とか”ロケーションを変える”という行為は、単に場所を変えるということだけではなく、“再定義された行為”なのではなかろうか。
そうすると、わざわざ出社するということや、敢えてローケーションを変えて仕事をすることも、深い意味に代わってくるように思う。


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